ハンセン病の隔離政策に反対し、患者の治療と研究に生涯を捧げた小笠原登博士の終焉の地「円周寺」に行ってきました。
2024年12月12日 、愛知県あま市の円周寺を訪ねました。 ハンセン病の克服と研究に生涯を捧げた小笠原登博士の生家であり終焉の地。 本人の強い意志で無縁仏の墓所に納骨されました。 小笠原登博士について、<出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 小笠原 登 (おがさわら のぼる、 1888年 (明治21年)7月10日 - 1970年 (昭和45年) 12月12日 )は 日本 の 医学者 (専攻は 皮膚科学 )で ハンセン病 (らい病)の研究者。元 京都帝国大学医学部 助教授。僧侶。 漢籍に通じ、俳句を詠み、絵画をたしなむ。 愛知県 出身。京都帝国大学医学部卒業後、同大学医学部の皮膚科特別研究室助教授となり、 1948年 まで在職した。彼はハンセン病の発病は体質を重視すべきことや不治ではないことを主張し、当時行われていた患者の強制隔離・断種に反対したが、学会から葬り去られる結果となった。 経歴 愛知県 海部郡 甚目寺村(現: あま市 )にある 真宗大谷派 円周寺の小笠原篤実の二男(戸籍では三男)として生まれる。 祖父小笠原啓実は住職であり、尾張藩医浅井家の 漢方医術 を学んだ漢方医で、らい病、 淋病 、 梅毒 などを得意としていた。 ここより 「やがて私の時代が来る 小笠原登伝」 大場昇 著 から引用 祖父小笠原啓実のハンセン病治療 円周寺を再興した小笠原の祖父・啓実は漢学や仏典の素養が深く、甚目寺小学校の教員に教えを授けていた時期もある。 その一方、啓導と称して漢方医術を施す医師でもあった。 啓実は医術を大垣の江間家に学び、のち名古屋の藩医・浅井董太郎に師事したことが歴史上のひとつの事件にかかわることになる。 浅井道太郎の実弟・山崎玄庵は高野長英の弟子だった。 玄庵は十四歳で尾張藩の医術試験に合格した神童として知られていた。 開明的な蘭学者・高野長英は渡辺筆山などとともに蛮社の獄で江戸小伝馬の牢につながれたが、牢番の英蔵に大金を渡して牢に火をつけさせ、大火の混乱に乗じて脱録。 長英が名古屋に潜伏すると、山崎玄庵は長英をかくまうだけにとどらず遺国までも同行する。 葛永三(一八五〇)年、長英は潜伏先の江戸・青山百人町で捕方に踏み込まれ絶命する。 長英をかくまい追手に...