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田中一村と小笠原登博士の交友

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先日、国立ハンセン病資料館に行き、図書室ミニ展示「田中一村と奄美和光園」を鑑賞してきました。 【開催中】図書室ミニ展示「田中一村と奄美和光園」 〜田中一村の奄美での芸術活動が国立ハンセン病療養所奄美和光園から始まったことをご存じでしょうか。 奄美に移住した一村は、到着して三日目に和光園を訪れました。 爾来入所者や、ハンセン病隔離政策に反対した小笠原 登医師らと交流を深めました。 小笠原登博士は京大の助教授で戦前、ハンセン病研究の結果、絶対隔離主義を批判し続けて、当時の療養所学派から激しい批判を浴びるが一歩も引かない。金も名誉も求めず、ひたすらハンセン病の研究と誤解解消と治療に尽くした立派な医師でした。 京大にも厳しい圧力がかかる。 それでも京大研究所を拠点にハンセン病患者の治療とハンセン病の誤解解消に生涯を捧げた人。 隔離派から圧力にさらされながら、京大助教授で1948年の60歳の定年まで奉職。 その後豊橋病院に勤務。 1957年に奄美和光園に奉職。 奄美和光園は、当時のハンセン病患者の絶対隔離主義の中では特異な存在で、患者の婚姻を認め、あまつさえ出産まで内々に認めていた。患者の人権を守っていた人道主義の施設運営をしていた。小笠原登博士のような存在が必要だった。小笠原先生も和光園の勤務を望んだのかも。 小笠原登博士は1957年に和光園に赴任。翌年南国に憧れた田中一村が紹介状をたずさえて、和光園を訪れる。 ここに二人の孤高の偉人な医師と孤高の天才画家の出会いが始まる。 小笠原先生は、愛知県の寺院出身の敬虔な仏教者であり、近代医学者で漢方も学んだ学徒で仏教哲学者であり、詩も画も漢詩も俳句も嗜む文人。 田中一村と意気投合するのもうなづける。 翌年秋には和光園官舎に居を移しています。官舎の庭で描いた「パパイヤとゴムの木」一村が奄美で制作した最初の本格的な作品です。 田中一村が、奄美の和光園でお世話になった小笠原登博士に送ったお釈迦様の絵の写真を追加しました。ハンセン病資料館の資料から撮影したのを忘れていました。 私は、田中一村に、生涯をハンセン病の誤解の解消と隔離の否定と、患者さんに捧げた小笠原登医師の肖像画を残して欲しかった。 一村は肖像画は頼まれた仕事しかしていませんね。 釈尊大悟御像画は、小笠原登医師へのオマージュと考えたくなってしまう。 田中一村はお世話になった人に...

田中一村と小笠原 登博士

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  田中一村が奄美大島に移住する際に支援者の岡田藤助医師から奄美の和光園の医師を紹介され、住環境のあてができたことが大きい。 その医師がハンセン病の誤解の克服に生涯尽力した小笠原登博士医師だったのか。   小笠原 登 Wikipedia 小笠原 登(おがさわら のぼる、 1888 年(明治 21 年) 7 月 10 日 - 1970 年(昭和 45 年) 12 月 12 日)は日本の医学者(専攻は皮膚科学)でハンセン病(らい病)の研究者。元京都帝国大学医学部助教授。僧侶。 愛知県出身。京都帝国大学医学部卒業後、同大学医学部の皮膚科特別研究室助教授となり、 1948 年まで在職した。彼はハンセン病の発病は体質を重視すべきことや不治ではないことを主張し、当時行われていた患者の強制隔離・断種に反対したが、学会から葬り去られる結果となった。 1915 年京都帝国大学医学部を卒業、 1925 年皮膚泌尿器科に転じた。同年 12 月京都大学より医学博士、 1926 年以降らい治療を担当。 1938 年、らいの診察・研究施設の皮膚科特別研究室主任 1941 年助教授、 1948 年まで在職、退官後豊橋病院に移る。 1957 年 9 月国立療養所奄美和光園に転じる。 1966 年 10 月退官。 1970 年 12 月 12 日、円周寺にて急性肺炎にて死去(享年 82 )小笠原医師は、らい病の三つの迷信を否定した。 不治の病ではない。 遺伝性ではない。 強い伝染性はない。 これらの正論は学会では無視された。 ハンセン病の正しい理解に生涯をかけた小笠原医師と奄美の自然と生活に魅入られた天才画家、二人のアウトサイダーの交流は実り多いものであったに違いない。 画像は田中一村が小笠原登博士に送った仏画です。 この仏画の意味をどう考えればいいのでしょうか。 もしかして、一村の奄美時代の画業終息思想の根幹には、小笠原医師の献身の姿が反映されているのかもと思ってしまいます。 家族と断絶された患者さんから、写真をもとに肖像画の執筆を依頼されて、興にのると、生き生きとした肖像画を描いて患者さん感謝されたようです。 孤高の画家が、奄美来島当初は国立療養所奄美...

東京都美術館 の田中一村展は史上最大級

  田中一村展、@東京都美術館を観てきました。   史上最高級、史上最大級の展覧会でした。   奄美時代の傑作群の前には何時間もたたずんでいられます。 新たな発見もありました。 東京美術学校を退学したあと、南画を離れて、後援者から見放されて、寡作と言われていたが、一村は切れ事無く描いていて、それを購入する後援者がいた。 一村は神童で、どの時代でも、 傑作を残している。 南画、文人画の天才は、琳派も、若冲も、雪舟も、明画もシームレスに受け入れて、成長していく。 特に、宗達から始まるデザイン性の巧みさは 田中一村の天才を際立たせている。 そして奄美の南国の原色の世界は、一村の孤高の世界を頂点に引き上げていく。 私はアーネスト・フェノロサから入ったので、南画・文人画がわからなかった。 与謝蕪村の展覧会でああ、 南画・文人画 は凄い技量が必要なんだとわかりました。 田中一村の奄美の住宅群の絵は、蕪村を思い起こしました。 東京美術学校 を二ヶ月で辞め、南画から脱却し、周囲の不寛容や 父や兄妹の死、そして千葉への転居、 不遇の時代が続き、それでも素晴らしい作品を描き続けた。 そして南国への旅を初めて、ついには、奄美大島に移住して、 国立療養所奄美和光園の官舎にて、奄美での芸術活動の第一歩を踏み出しました。 清貧の中で、絵画だけの人生を送る。 当初は、南国での作画によって、東京の画壇での決着をつけると漏らしていた。 しかし、千葉などの支援者に奄美での作品も披露するが、田中一村の絵画は一向に評価されない。 5年働いて3年間描き、2年働いて個展費用を作り、個展を開く。 苦しい生活の中でもその時期にあの傑作群が生まれたのだ。 しかし、病魔は徐々に田中一村をむしばんでいき、 1972年 に紬工場を辞め、3年間絵画制作に専念するが、腰痛や 眩暈 などで三度も昏倒する。 1976年 、6月下旬、畑仕事中に 脳卒中 で倒れ、一週間入院。 その後、名瀬市の老人福祉会館に通い リハビリテーション に励む。 姉・房子と甥・宏が来訪、奄美で描かれた一村の作品を預かり、千葉に持ち帰る。 1977年 - 春、体調やや回復する。 9月1日、和光園近くの畑の中の一軒家に移り、「御殿」と称する。 同月11日、夕食の準備中に 心不全 で倒れ、死去。69歳没。 遂に、生前の田中一村...